เข้าสู่ระบบ床に落ちた萎れた水仙の花に気づかず、|墨余穏《モーユーウェン》はそれを踏み付けて、|師玉寧《シーギョクニン》のいる荒れた寝台へ向かった。 「|賢寧《シェンニン》兄、俺だよ」 |墨余穏《モーユーウェン》は愛猫を愛でるかのような表情を見せて、優しく問いかけた。 以前のように何気なく|師玉寧《シーギョクニン》の肩に触れようと手を伸ばすが、煩わしいハエでも払いのけるかのように、力強く|師玉寧《シーギョクニン》に阻止される。 「誰だ! 貴様は! 知らない者が私に勝手に触れようとするな! 穢らわしい!」 |知らない者《・・・・・》と言われた|墨余穏《モーユーウェン》は「ごめん……」と言って、僅かに震える手を引っ込めた。 |墨余穏《モーユーウェン》は小さく息を吐き、気を取り直してもう一度、|師玉寧《シーギョクニン》に話しかける。 「知らないだなんて酷いなぁ〜。|賢寧《シェンニン》兄とずっと一緒にいた|墨逸《モーイー》だよ。本当に俺のこと忘れちゃったの?」 「知らないと言ったら知らない。用がなければ早く出て行ってくれ!」 どうやら、本当に|師玉寧《シーギョクニン》は記憶を失くしてしまっているようだ。|一恩《イーエン》曰く、特定の人物だけの記憶を失くしている訳ではなく、自分が何者かであることも忘れてしまっているらしい。 |墨余穏《モーユーウェン》は窓を開け、日差しの光で輝きを放っている埃たちを外へ追いやった。 「分かった、分かった! 俺は出て行くから、その代わりこの部屋を綺麗にさせてよ。ほら、見てよ! 凄い埃。こんな所にずっと居たらその傷も治んないよ。手当てもし直したいし、あなたは少しそこのカウチに横になって休んでもらってていいから、ね? |一恩《イーエン》」 「は、はい! 私たちが全てお綺麗にしますので、お気になさらずどうぞこちらでお休みに……」 |一恩《イーエン》は鼻を啜りながら、カウチを案内するように両手を向ける。 すると、|師玉寧《シーギョクニン》は黙ったまま、腹の痛みを抑えながら寝台から足を出した。 「手を貸そうか?」と|墨余穏《モーユーウェン》は尋ねるも、|師玉寧《シーギョクニン》は「触れるな」の一点張りだった。|墨余穏《モーユーウェン》は|一恩《イーエン》に掃除道具や処置に必要なもの、身体を拭く湯などいくつか持
|崑崙山《こんろんざん》を覆った不吉な暗雲は冷たい大雨を降らせ、雷鳴を轟かせながら|墨余穏《モーユーウェン》と|黄轅《コウエン》を襲った。 「はっくしゅん!」 これで何度目のくしゃみだろうか。垂れてくる鼻水を啜りながら|墨余穏《モーユーウェン》は今も修行を続けていた。 |黄轅《コウエン》に邪念を捨てろと言われていたが、|墨余穏《モーユーウェン》は靄のかかった違和感をどうしても拭い切れず、|黄轅《コウエン》に打ち明けた。 「先生、|師玉寧《シーギョクニン》に何かあったかもしれない……」 「|寒仙雪門《かんせんせつもん》の宗主にか?」 |墨余穏《モーユーウェン》は頷きながら、崑崙山へ入山する前に、|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》から呑服符を貰ったこと、その呪符が反応しているかもしれないと告げる。 「ほう。道玄天尊の同化呑術か」 「同化呑術?」 |墨余穏《モーユーウェン》は初めて聞いたといった様子で、首を傾げた。|黄轅《コウエン》は中へ入ろうと墨余穏を自宅に招く。水分を十分に吸い取ってくれそうな分厚い布切れを墨余穏にも渡し、顔を拭きながら続けた。 「そうだ。離れそうになる者たちを一時的に繋ぎ止めておく事ができる特殊な呪符だ。でも、珍しいな。普通は夫婦とかそういった類の人らに使うはずなんだが。お前たち、そんな懇ろな関係なのか?」 |墨余穏《モーユーウェン》はそっと俯き、「なれるならそうなりたいよ、俺は……」と呟きながら分厚い布切れを頭から被った。 「そうか」と、|黄轅《コウエン》はそれ以上突き止めることはせず、突然|雲師《うんし》らしさを発揮した。 黄轅は雨を降らせている暗雲に向かって|刀印《とういん》を結ぶと、目を瞑って何かを唱え始める。 天台山周辺に張り巡らせている神呪から、何か情報を得ているようだ。|墨余穏《モーユーウェン》は|黄轅《コウエン》の様子を静かに見守っていると、|黄轅《コウエン》の口から衝撃的な言葉が漏れた。 「寒仙雪門に旗が立っている。何か危機的な状況かもしれん」 各門派には、旗が用意されているのだが滅多に立ち上がることはない。立ち上がる時は、宗主が身罷られたか閉関など門派全員が喪に伏せる時ぐらいだ。 |黄轅《コウエン》の言葉を聞いた|墨余穏《モーユーウェン》は、猛烈な恐怖と焦りが鳥肌がとともに浮
|師玉寧《シーギョクニン》はあれから、一人大きな溜め息を吐きながら、一葉茶を淹れていた。 ぼんやりとしているせいか、普段よりも濃く淹れてしまい、珍しく咳き込む。 |寒仙雪門《かんせんせつもん》では、連日雪が降り注いでいた。 解けては消えていく雪の結晶が、まるで|師玉寧《シーギョクニン》が抱く|墨余穏《モーユーウェン》への恋慕のように、ひらひらと舞い落ちていく。 せっかく愛する者が甦ったというのに、心を壊してでも逢うことを切望していたというのに、どうして姿が実在するとこんなにも遠くに感じてしまうのだろうか。 今世は絶対に側に置いておくと決めていたのに、指先にも触れられず、流れていく水の如く想いも上手く掬えない。 |師玉寧《シーギョクニン》は、|墨余穏《モーユーウェン》がよく横になっていたカウチで横たわり、ひと眠りする。 朧げな夢はいつも、|墨余穏《モーユーウェン》が死んだあの日を映す。 自分の胸にはいつも、冷たくなった|墨余穏《モーユーウェン》がいる。ただ眠っているだけに見える顔にどれだけ声を掛けても、どれだけ叫び続けても、透き通った頬に涙が滑り落ちていくだけで、|墨余穏《モーユーウェン》は一切反応してくれない。「行かないでくれ……。私を独りにしないでくれ……」 生きている時には言えなかった言葉を、声を震わせながら|師玉寧《シーギョクニン》はただひたすら伝え続けた。 父上に促され、|墨余穏《モーユーウェン》の死体から離れると、|師玉寧《シーギョクニン》はその場で意気消沈し、人目を気にせず座り込んだ。 白い布に包まれて運ばれていく|墨余穏《モーユーウェン》の死体を見つめながら、誰も手を差し伸べられないほど慟哭した。 目が覚めると、瞼の縁から一粒の涙がカウチに落ちる。 布地にじんわりと染みていく水滴を|師玉寧《シーギョクニン》はぼんやりと眺め、指先でそれをなぞった。 |墨余穏《あいつ》の居場所は分かっている。迎えに行くべきだろうか。「言い過ぎた」と素直に謝れば、またここに戻ってきてくれるだろうか。 |師玉寧《シーギョクニン》は起き上がりながら、らしくない突発的な衝動に駆られた。 立ち上がったと同時に、招いていない何者かが寒仙雪門の門を潜った気がした。|師玉寧《シーギョクニン》は文机の引き出しに仕舞ってあった呪符を取り出し、そっと
それから|墨余穏《モーユーウェン》は、全てを失ったかのような複雑な感情を抱いたまま、|崑崙山《こんろんざん》へ向かった。『一人になりたい』という言葉は、|師玉寧《シーギョクニン》にとっては、拒絶とも取れる言葉なのだろう。 どうして相談もせず口走ってしまったのだろうかと、|墨余穏《モーユーウェン》は自分の放ってしまった言葉に、酷く後悔した。 ただ、やはり|師玉寧《シーギョクニン》は|香翠天尊《シィアンツイてんずん》に想いを寄せているのだと、|墨余穏《モーユーウェン》は確信する。あの目の憂い、落胆するような仕草は、香翠天尊に何かしらの情があるからに違いない。 最愛の人が疑われるのは、|師玉寧《シーギョクニン》にとって心底心外だっただろう。 だが、|墨余穏《モーユーウェン》はどうしてもそれを拭い去ることができなかった。 金龍台門へ行く前、天台山で|香翠天尊《シィアンツイてんずん》に襟元を整えてもらった時、何か特殊な力を感じた。 僅かだが、|天晋《ティェンシン》からも香翠天尊と同じ温度みたいなものを感じたのだった。 |師玉寧《シーギョクニン》にこの僅かな変化を伝えられたら良かったのかもしれないが、もう後の祭りだ。 |墨余穏《モーユーウェン》はひとしきり後悔した後、峻険な崑崙山の中腹まで|乗蹻術《じゃきょうじゅつ》を使って飛び立った。 前世の記憶を辿り、林の中をひたすら歩いていく。 すると、確かに記憶に残っていた家屋が木々の隙間から薄らと見え始めた。 (あそこだ! ) |墨余穏《モーユーウェン》は木々を掻き分けて颯爽と向かう。 家屋の敷地に到着すると、何か擦れる音が庭先から聞こえてきた。その音の方に向かって歩いていくと、中年の男が石に座って剣を磨いているではないか。 |墨余穏《モーユーウェン》は口元を緩ませ、名前を呼ぶ。「|黄轅《コウエン》先生!」 すると、中年の男は驚いた様子で|墨余穏《モーユーウェン》の方に振り向いた。 目を細め、まじまじと|墨余穏《モーユーウェン》を眺めると、研いでいた剣を放っぽり出してこちらに向かって来る。 「|豪剛《ハオガン》の|墨逸《モーイー》か?! おっと、たまげた! 本当に墨逸じゃないか〜!!」 |黄轅《コウエン》は目尻を垂れ下げた満面の笑みを浮かべて、|墨余穏《モーユーウェン》を抱き寄せた。
おぼつかない足取りで|墨余穏《モーユーウェン》は、|葉風安《イェフォンアン》の元へ向かう。 葉風安の冷たくなった血塗れの頭部を拾うと、墨余穏はその場で崩れ落ち、葉風安を抱きしめながら深い愁いに沈む。その姿を見ていた|師玉寧《シーギョクニン》も目潤わせ、天を仰いで長嘆した。 憂愁に閉ざされた緑琉門は深い悲しみに包まれる。 一つの門派がこのような形で閉門するなど、誰が想像していただろうか……。未だこの現実を受け止めきれない門弟たちは、いよいよ、本格的に天台山は統治を保てなくなってきたかもしれないと、落胆の声を上げた。 その中、毅然と振る舞う数名の門弟たちの手によって三人の遺体は、|葉誉《イェユー》が信仰していた道観に綺麗にまとめられた。 天台山で供養してもらう為、残っていた一部の魂魄を霊符に納め、皆で黙祷する。 しばらくして厳かな風が吹き抜けると、|葉誉《イェユー》の側近だったという一人の男が、その霊符を|師玉寧《シーギョクニン》に渡した。「|師《シー》門主……。これから我々門派は、衰運の一途をたどるでしょう。どうか私たち緑琉門のこの無念、あなた様の手で晴らしていただきたい……。天台山の安寧を祈ります」 側近に倣い、そこにいた全ての緑琉門の門弟たちが|師玉寧《シーギョクニン》に深く頭を下げた。 |師玉寧《シーギョクニン》も受け取った霊符を白い布で包むと、緑琉門の門弟たちに深く頭を下げた。 |墨余穏《モーユーウェン》は、床に落ちていた一枚の鮮やかな翠緑の羽を見つけ、そっと拾い上げる。両面をひらひらと眺めながら、|葉風安《イェフォンアン》の面影を記憶から呼び覚まし、瞼の裏に葉風安を映す。 |墨余穏《モーユーウェン》はひとしきり|葉風安《イェフォンアン》を感じた後、彼の形見としてそれを胸元に仕舞った。 それから|墨余穏《モーユーウェン》と|師玉寧《シーギョクニン》は緑琉門を後にし、|乗蹻術《じゃきょうじゅつ》を使って天台山へ向かった。 二人の間に会話はなく、相変わらず重い空気だけが流れている。 道中、墨余穏はある事を思い出し、ふと口を開いた。 「そういえば、|一恩《イーエン》たちはどうしたんだ? 先に緑琉門に向かっていたはずじゃ?」 |師玉寧《シーギョクニン》は少し間を空けて答える。「急遽、天台山へ行かせた」「天台山? 何
腹部を刺された|葉風安《イェフォンアン》はその瞬間、ずっと待ち侘びていた|墨余穏《モーユーウェン》の姿を捉えた。 記憶の中に沈めていた思い出が走馬灯のように駆け巡り、|墨余穏《モーユーウェン》が見せる絶望的な眼差しを見る。 天流会で助けてくれたあの日から、|葉風安《イェフォンアン》は|墨余穏《モーユーウェン》に想いを寄せていた。 |師玉寧《シーギョクニン》とは違う端麗な面持ちと、風が吹き抜けるような爽やかな笑みに何度も心を奪われ、脆い心に自ら心地よい風を吹かせた。墨余穏だけは常に特別であり、気まぐれな彼がいつ来ても良いようにと、緑琉門の厳重な門符を解き、私室も開放した。 数え切れない程の時間を共にし、ようやく心づもりができたと思った矢先だった。小夜嵐が軒を鳴らすように|青鳴天《チンミンティェン》との戦いで、|墨余穏《モーユーウェン》が死んだという知らせが届いた。 この時、葉風安は絶望を超えた喪失感に襲われ、この世に風が存在していることすら忘れてしまう程途方に暮れた。 |葉風安《イェフォンアン》はどうにかして、|墨余穏《モーユーウェン》の魂魄を呼び戻せないかと|道玄天尊《ダオシュエンてんずん》の元へ悲願しに行ったが、どうしてか魂魄は見つからず、手掛かりが掴めないまま十年が過ぎてしまった。 その間に、自分と同じ気持ちでいた人が別にいたことを風の噂で聞き、それがまた敵わない相手だと知った|葉風安《イェフォンアン》は、悲恋を抱いた。 目の前にいる二人の関係性を崩す訳にはいかないと、|葉風安《イェフォンアン》は一人、自分の心に木枯らしを吹かせ、二人の幸せを願った。 「|風立《フォンリー》!!」 |墨余穏《モーユーウェン》の叫ぶ声が鳴り響く。 |葉風安《イェフォンアン》は墨余穏の声に応えるように、ほんの僅かに口元を緩ませると、口から物凄い勢いで鮮血を吐き出し、意識を失くした。 側にいた|呂熙《リューシー》が更に追い討ちをかけるかのように、鉤爪で固定していた葉風安の首を切断した。 目の前の惨劇に驚愕した|墨余穏《モーユーウェン》は、思わず叫ぶ! かつてないほどの殺気を込めて胸元から呪符を取り出し、|墨余穏《モーユーウェン》は|呂熙《リューシー》の元に飛び掛かった。強力な神呪で呂熙の身動きを封じた後、次に墨余穏は動きを変え、|青鳴天《チンミ